深い、深い雑木林の奥。そこには、地図には載っていない小さな家がひとつ。 銀色の屋根にツタの絡まったレンガ造りの煙突、そして古びた木製のポスト。それが私のアトリエ「精霊ポスト」だ。
今朝の森は、いつもより少しだけ特別だった。 窓を開けると、ひんやりとした朝の霧が部屋に流れ込み、パジャマ越しに肌をなでる。外では、クヌギやコナラの葉が重なり合い、その隙間からこぼれ落ちる光がパッチワークのように地面を彩っている。 「ふあ……。いいお天気」 寝ぼけ眼でテラスへ出ると、足元の湿った土と、目覚めたばかりの若葉が放つ青く瑞々しい香りが鼻をくすぐった。遠くで「コト、コト」とキツツキが木を叩く音が、静かな森の朝奏(あさかなで)のように響いている。
ふとポストを見ると、小さな鈴が転がるような、涼やかな音が響いた。 「……あ、届いてる」 中に入っていたのは、薄いブルーの透き通った封筒。それは、この森の川を守る「水辺の精霊」からのメッセージだ。 封を切ると、中から冷たい飛沫(しぶき)が弾けて、水面に一滴の雫が落ちたときのような、ひんやりと澄んだ声が耳元を掠めた。
『……昨日は、詰まっていた川の石をどかしてくれて、ありがとう。おかげで流れが綺麗になったよ。これは、僕からのお礼!』
封筒の底からコロリと転がり出したのは、宝石のように輝く「青色のベリー」。精霊たちが大切に育てている不思議な果実だ。 「ふふ、ありがとう。……そうだ、このベリーを使って、新しいジャムを作りたいな」 でも、ジャムを美味しく煮詰めるには、火加減を見てくれる「火の精霊」さんの助けが必要。 私はエプロンの紐をキュッと締め直し、キッチンの薬草棚を開けた。精霊さんに「お願いごと」をする時は、彼らが大好きな香りをポストに届けるのが、この森のルールなんだ。
今日選んだのは、乾燥させたばかりの『ミモザ・ベリー』。 丸くて黄色いその実を指先で軽くつぶすと、摘みたてのベリーの甘酸っぱさと、焼きたてのパンみたいな香ばしさが混ざり合った、不思議と安心する香りが立ち上る。 お気に入りのポットにお湯を注ぐと、「トクトク」という柔らかな音が静かな部屋に響き渡った。
「火の精霊さん、美味しいお茶が入ったよ。ちょっと手伝ってくれるかな?」
窓辺に置いたカップから、甘いバニラに爽やかなレモンをひと絞りしたような琥珀色の湯気が、ゆらゆらと木漏れ日の中へ溶け込んでいく。 この香りに誘われて、小さな火の粉が遊びに来てくれるのを待ちながら。 私のアトリエの、静かで優しい時間が今日もゆっくりと動き出す。

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