中央線快速の終着駅に近いその街は、二十三区の境界線を越えた途端に、驚くほど「生活」の匂いを色濃く漂わせる。
夜の十時を過ぎた駅前ロータリーには、都心で夜遅くまで揉まれてきたとおぼしき背中の丸い会社員たちや、まばらな路線バスを待つ人々が、寒空の下で一様に首をすくめて立っていた。 主人公の志乃(しの)は、浮腫んでパンパンになったパンプスのつま先をトントンとアスファルトに打ち付けながら、大きく息を吐き出した。吐き出された息は、頼りない白さとなって、またたく間に夜気へと溶けていく。
駅から彼女の暮らす古いアパートまでは、歩いてちょうど十五分かかる。 最初の五分こそ、まだぽつぽつと深夜営業の赤提灯やコンビニの明かりが足元を照らしてくれるが、そこを過ぎて住宅街の深部へと足を踏み入れると、街灯の間隔は目に見えて長くなる。商店街のシャッターはとっくに下り、暗がりに沈んだ一軒家からは、誰かの家のテレビの音や、お風呂が沸いたことを知らせる電子音が、かすかに漏れ聞こえてくるだけだ。
「……今日も、長かったな」
誰もいない夜道で、志乃はぽつりと呟いた。自分の声が、やけにガサガサと乾いて聞こえる。
日中の職場は、静かな戦場だった。常に誰かの機嫌を窺い、効率と数字という目に見えない鎖に縛られながら、キーボードを叩き続ける。自分のミスでもないのに、波風を立てないためだけに笑顔で頭を下げ、すり減った精神は、もう今にも破れそうな薄い紙一枚ほどの厚みしか残っていない。 満員電車に一時間近く揺られ、吊り革に掴まる腕の感覚が麻痺していく中で、志乃はいつも「自分は何のために生きているのだろう」と考えてしまう。家賃を払い、光熱費を落とし、最低限の食費を引けば、手元に残るものはほんのわずかだ。金銭的な余裕などどこにもない。ただ、生きるためだけに自分の時間を切り売りしている。そんな自嘲のステップが、重い足取りに合わせて頭の中で虚しく響いていた。
曲がり角を三つ過ぎ、街灯の光がさらにまばらになった路地の奥に、目的の木造アパートが立っていた。築三十年。外壁の塗装はところどころ剥げ、鉄製の外階段は雨風に晒されて赤茶けている。 その階段を一段上るごとに、夜の静寂に「ギィ……、ギィ……」と間の抜けた音が響く。その寂しげな音さえも、今の志乃にとっては、肩にのしかかる重荷のように感じられた。
二階の突き当たり、203号室。 志乃はバッグの奥底から鍵を引っ張り出し、錆びついた鍵穴に差し込んだ。カチャリ、と金属の音が響き、ドアノブを回す。
重い鉄の扉を数センチだけ開けた、その瞬間だった。
(——いる。そこで待ってる)
部屋の明かりは消えている。静まり返った暗闇のはずなのに、三和土(たたき)のすぐそばから、何とも言えない柔らかな、温かい「気配」がまっすぐに伝わってきた。志乃の張り詰めていた心の輪郭が、その気配に触れた瞬間、ほんの少しだけ丸みを帯びる。
「ただいま、福」
電気のスイッチを入れると、狭い玄関のたたきに、一匹の猫がちょこんと座っていた。
雑種の成猫、名前は「福(ふく)」。 白をベースに、背中と頭にだけ焦げ茶色のぶち模様がある。お世辞にも血統書付きのような華やかさはないが、すっと通った鼻筋と、賢そうな琥珀色の瞳が特徴の、志乃の大切な相棒だった。
福は、他の猫のように「ミャー」と甲高い声で鳴いて擦り寄ってくるような真似はしない。ただ、ドアが開いた瞬間、細めた瞳でじっと志乃を見上げ、短い尻尾をトントンと床に二回叩きつける。それが、この子なりの「おかえり、遅かったね」のサインだった。
福との出会いは、三年前のひどい雨の日だった。 仕事で手痛い失策をやらかし、泣きながら駅から歩いてきた志乃は、アパートの一階にある薄暗い駐輪場で、ずぶ濡れになって震えている小さな塊を見つけた。段ボールに入れられているわけでもなく、ただ雨宿りをしながら、飢えと寒さに耐えていた小さな雑種猫。それが福だった。 当時の志乃には、ペット可の物件に引っ越す余裕など当然なかったが、大家に必死で頭を下げ、敷金を余分に払うことで、なんとかこの古い部屋での同居を許してもらった経緯がある。それ以来、福は志乃の生活の、文字通りの「中心」になった。
志乃はコートを着たまま、その場にへたり込むようにして床に座り込んだ。 カバンを放り出し、ストッキングに包まれた足を伸ばす。パンプスから解放された足先がジーンと痛む。
「今日もね、すっごく疲れた。もう、明日会社行くのやめようかなって、本気で思っちゃった」
愚痴ともつかない弱音を、志乃は床を見つめながら溢した。 すると福は、三和土からフローリングの段差を音もなく上がり、志乃のすぐ隣に歩み寄ってきた。そして、ベタベタと顔を寄せるのではなく、志乃の太ももの横に、スッと自分の体を寄り添わせるようにして座った。
ただ、それだけだった。 けれど、福の体から伝わってくる確かな重みと、じんわりとした温もりが、志乃の衣服を通して肌に伝わってくる。外の冷たい空気の中で浴びてきた、他人の冷ややかな視線、理不尽な言葉の刃、満員電車の息苦しさ——それらすべてが、福の温もりに触れた瞬間、さらさらと音を立てて砂のように崩れ落ちていくようだった。
「ありがとね、待っててくれて」
志乃がそっと手を伸ばし、福の頭の、茶色いぶちのあたりを撫でる。福は気持ちよさそうに目を細め、耳をぴくぴくと動かした。けれど、決して過剰には甘えない。その絶妙な距離感が、疲れ果てた志乃にとっては、何よりも心地よかった。
しばらくそうして玄関で過ごした後、志乃は重い腰を上げて浴室へと向かった。 古い賃貸アパートの浴室は狭く、冬場は容赦なく床のタイルから冷気が上がってくる。シャワーの湯量も都心のマンションに比べればお世辞にも潤沢とは言えないが、それでも熱い湯を頭から被っていると、体の中にこびりついていた一日の澱(おり)が、泡と一緒に排水口へと流れていくような気がした。
お湯に浸かりながら、志乃はふと、先週の給料日に奮発して買った福の「ちょっといいおやつ」のことを思い出した。いつもは安価な大袋のカリカリだが、たまには贅沢をさせてあげたいと、厳選した国産マグロの高級パウチだ。
「よし、お風呂から上がったら、福に半分あげよう」
そんなささやかな楽しみに胸を膨らませ、志乃は髪を乾かし、膝の抜けたスウェットに着替えて居間へと戻った。
六畳一間の居間には、小さなローテーブルと、テレビ、そして福の定位置である使い古された座布団があるだけだ。 志乃がキッチンでマグロのパウチを開けると、その微かな「ピリッ」という音を敏感に察知したのか、福がトトトと足音を響かせてやってきた。
「はい、お待たせ。今日は特別だよ」
小さなお皿に半分だけ中身を移し、床に置いてやる。 福は、ふんふんと鼻を鳴らして匂いを嗅いだ後、猛烈な勢いで食べ始めた。普段のクールな姿からは想像もつかないほど、必死な顔で皿を舐めている。志乃はその姿を微笑ましく眺めながら、自分も淹れたての白湯を口に運んだ。
しかし、事件はその数分後に起きた。
あっという間に自分の皿を空っぽにした福は、まだ物足りなそうに口の周りを舐めていたが、何を思ったのか、志乃の座るローテーブルの上へとぴょんと飛び乗った。 そして、志乃が手元に置いていた、まだ中身が残っている「おやつのゴミ(空パウチ)」を見つけると、それを前足で器用に引き寄せた。
「あ、こら、福。それはもう空っぽだよ」
志乃が止めようとした、その時。 福はパウチの底に残ったわずかな匂いを嗅ごうと、勢いよく鼻先を袋の中に突っ込んだ。 ——ところが、パウチのサイズが福の顔の大きさに絶妙にフィットしてしまったらしい。
「え?」
福が顔を上げると、そこには、アルミのパウチを顔面にすっぽりとはめたまま、完全に視界を奪われた猫の姿があった。 驚いた福は、一瞬フリーズした。その後、バックギアを入れた車のように、そのまま後ろ向きにトトトトト、とテーブルの上を後退し始めた。
「ちょっと、福! 後ろ、後ろ危ない!」
志乃の声も届かず、視界の消えた福は、テーブルの端に気づかないまま、お尻からずるりと床へ落ちていった。幸い、テーブルの高さは三十センチほどしかないので怪我をするような落ち方ではないが、床に着地した瞬間、その衝撃でようやく顔からパウチがスポンと抜けた。
床にへたり込んだ福は、一瞬だけ「私は今、どこで何をしていたのでしょう」と言わんばかりの呆然とした表情で虚空を見つめ、それから何事もなかったかのように、激しく自分の右前足をペロペロと舐め始めた。まるで、「べ、別に焦ってなんかいない。最初からこういう予定だった」とでも主張するように、必死で毛繕いをして、平静を装っている。
「ふ、ふふ……っ」
志乃は堪えきれず、吹き出してしまった。 お腹の底から笑ったのは、一体いつ以来だろう。声を上げて笑っている志乃を、福は少し不満そうな、バツの悪そうな目でじっと見つめている。その、ちょっとプライドの高そうな「すました顔」が余計におかしく、志乃の笑いはしばらく止まらなかった。
「もう……何やってるのよ、福は。格好つかないねぇ」
志乃は床に這いつくばり、福の体を抱き寄せた。福は一瞬だけ「うにゃ」と小さな抗議の声を上げたが、すぐに諦めたように、志乃の腕の中で脱力した。 ふにゃふにゃとした猫の体の柔らかさと、どこか香ばしい日向のような匂い。それが、さっきまでのまぬけな一幕の余韻とともに、志乃の胸いっぱいに広がっていく。 都会の隅っこで、こんなに間抜けていて、こんなに愛おしい時間が流れているなんて、職場の誰も知らないだろう。そう思うと、なんだか小さな秘密基地を手に入れたような、誇らしい気持ちにさえなれた。
夜が、さらに深まっていく。 二十三区外の住宅街は、十二時を回ると車の通りもほとんど途絶え、完全な静寂が街を支配する。窓の外では、時折冷たい冬の風が吹いて、アパートの古い網戸をガタガタと揺らしていた。
志乃はテレビをつけることもせず、部屋の明かりを落として、間接照明の小さな灯りだけを残した。 布団を敷き、その中に潜り込む。枕元に、福がゆっくりとした足取りで近づいてきた。福は志乃の顔をじっと見つめた後、布団の端を器用に前足で押し分け、志乃の腕の中へとスッと滑り込んできた。
冬の夜の特権。こうして、福は志乃の腕枕で眠るのが好きだった。
福の体は、驚くほど温かい。生きている、ということが、その小さな鼓動と体温を通してダイレクトに伝わってくる。 志乃は福の背中にそっと手を置き、その柔らかい毛並みをゆっくりと撫でた。
「福、おやつ、美味しかった?」
小さな声で語りかける。福は答えず、ただ喉を「ゴロゴロ、ゴロゴロ……」と鳴らし始めた。 その音は、部屋の隅々にまで静かに響き渡る。まるで、傷ついた志乃の心を修復するための、特別な呪文のようだった。
ゴロゴロという音の振動が、志乃の指先から腕へ、そして胸へと伝わっていく。 その心地よいリズムに身を委ねていると、日中に感じていたあの「自分は何のために生きているのだろう」という重苦しい問いの答えが、ごく自然に浮かんでくるような気がした。
私は、この子のために生きているのだ。 この、小さくて、ちょっとまぬけで、けれど私を世界で一番必要としてくれている相棒のために、私は明日もご飯を買い、この部屋を守らなければならない。
それは、決して大層な社会的使命でもなければ、誰かに誇れるような立派な夢でもない。 けれど、今の志乃にとっては、どんな高尚な理由よりも強く、確かに彼女の足元を支えてくれる、絶対的な北極星だった。
「明日も、また駅まで長い道を歩かなきゃね」
志乃は、福の額にそっと額を合わせた。福は、優しく目を閉じたまま、ふぅ、と小さなため息をついた。その息が、志乃の頬をかすかに揺らす。
お金はない。仕事は辛い。明日もまた、満員電車に揺られ、理不尽な現実と戦わなければならない。 それでも、この二十三区外の、誰にも知られていないような古いアパートの扉の向こうには、この温もりが待っている。その事実だけで、明日を生きるためのエネルギーが、体の奥底からじんわりと湧き上がってくるのを感じていた。
「おやすみ、福。明日も頑張るよ」
志乃は小さく、けれど確かな決意を胸に呟き、そっと瞼を閉じた。 部屋を包む藍色の夜は深く、どこまでも静かだ。けれど、布団の中の小さな世界だけは、地球上のどこよりも温かく、二人の穏やかな呼吸だけが、途切れることなく重なり合っていた。

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