忙しなく過ぎていく都会の喧騒と、消しても消しても増えていくメールの通知。そんな日常の重たさを脱ぎ捨てるように、私は最新のフルダイブ機を頭に装着した。
「リンク・スタート」
意識がふっと浮き上がり、次の瞬間、肺いっぱいに吸い込んだ空気は——驚くほどに、澄んでいた。
目を開けると、そこには抜けるような青空が広がっていた。今まで画面越しに見ていたどの景色よりも鮮やかで、それでいて目に優しい。私が降り立ったのは、なだらかな丘の上。まだ手付かずのさらさらとした土と、短く切りそろえられたような若草の絨毯が、どこまでも私を歓迎するように広がっている。ここが、この世界で私に与えられた最初の領地だ。
「……すごい。本当に風が吹いてる」
そよ風が頬をなで、髪を優しく揺らしていく。現実のそれとは違う、どこか花の蜜を混ぜたような、ほんのりと甘い香りがした。
私はゆっくりと腰を下ろし、地面に手を触れてみた。手のひらからは、陽だまりをたっぷり含んだ土の柔らかな温もりが伝わってくる。耳を澄ませば、どこか遠くの森から小鳥のさえずりが微かに響き、見上げた木々の隙間からは、柔らかな木漏れ日が宝石の欠片のようにこぼれ落ちていた。
視界の端に、『土地の名前を決めてください』と控えめなシステムメッセージが浮かび上がる。私は少し考えてから、そっと空中に指を滑らせた。
【名称:コモレビの庭】
これで、ここが私の本当の居場所になった。誰と競う必要もないし、数字に追われることもない。ただ、自分が心地よいと思える場所を、自分の手で少しずつ慈しんでいけばいいのだ。
手元にあるのは、初期装備の古びたジョウロと、一袋の種だけ。私は立ち上がり、水場を探して周囲を見渡した。丘の裾野、歩いて数分ほどの場所に、キラキラと光る細い筋が見える。
緩やかな斜面をのんびりと下っていく。草を踏む感触が心地よく、このちょっとした距離でさえも贅沢な散歩に感じられた。辿り着いた小川は、底の石がはっきりと見えるほど透き通っている。しゃがみ込んでジョウロを水に浸すと、「ぽちゃぽちゃ」と涼やかな水音が耳に届いた。掬い上げた水は、太陽の光を反射して、掌の上でキラキラと輝いている。
「よし。まずは、ここから始めよう」
またのんびりと来た道を戻り、自分の拠点となる場所へと歩き出す。ふかふかの土を踏みしめる感覚を楽しみながら、私は自分だけの庭に、最初の希望を蒔くことにした。
今夜の私の世界は、静かで、とても温かい。


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